たくさんの意見がひしめくなか、
入ってくる情報が多様すぎて何を真実とすればよいのかも分からないなか、
ひとりひとり、
じゃあ、自分にとって、何が大切で、
どういう価値観・意見をもって、どう生きていく人間なのか。
ということを問われるような、そんな1週間だったと思う。
普通に日常生活を送る分には分からなかった価値観の違いが如実に現れて、
昨日まで気が合うと思っていた人と、実は違う感想を持つものなんだなぁ。と、気づいて、
何か居心地の悪さを感じた人もきっとたくさんいるんじゃないかな。
ニュースでは「危険です」と情報が流れ、
専門家が「大丈夫です」と意見し、
それらについての、膨大な意見やら情報が錯綜し、
で、じゃあどういうスタンスでいることが正しいのか。
何を思えば、何を言えば、どう行動すれば正解なのかを皆が必死に求めている感じがした。
私はあまのじゃくで、用心深いくせに、
何か思い立つと直感的に楽観的に生きていく、変な人なので、
メディアに出る人が大丈夫だといえば、その5倍くらいは危険だと考えたほうがいいと思い、
でも、危険だと言われれば、「いやいや、なんだかんだいって大丈夫だよ」と言いたくなったりした。
で、実際、どう思っているかというと、
まだ状況は安全ではないけれど、
なんとかがんばって大丈夫になるのだ、と信じている。
だから、いまこの状況で、
過剰に危険視して悲観し、慌ててもしょうがないとも思うけど、
だからといって、楽観視して何の対策もせず、いつもどおり平気でいていいわけでもないだろうと。
大丈夫だと思っている人に、やたらと危険をとくのも変なことだし、
だからといって、安全対策をとる人に「過剰反応している人は恥ずかしい。」みたいなことを言うのも、
もっと危険なことだと、私は思う。
「あんなことを言っている人がいる」
そうやって、戦争中は、だれも自分の本当の意見をいえなかった。
「これが世界を救うんだ。」
そういう局所的な正義・使命感のもと、
殺戮を繰り返してきたのが、人間の歴史だ。
いつでも思うのは、
ある意見が、その瞬間に、どんなに正しいことに思えても、
たった一つの普遍的な正しい答えなど、存在しないのだということ。
世界の歴史を見ても、
その歴史の瞬きにもみたない私のこれまでの人生でさえ、
善悪、好き嫌い、の概念は、ぐるぐる変わり続けている。
そんな刹那で脆弱な思想に寄りかかったところで、一体どんな安心感が得られるというのだろう。
すべては変わっていく。
それだけは、変わらない真実である。
すべて、変わっていく。
きっと、
それでいいのだ。
ある、人がいて、
ある、意見が生まれる。
自分はそれに、同意したり、しなかったり。
でも、それぞれに、ある。
ただ、それだけで、そこに正しいも間違っているもない。
ただ、あること。
それで、きっと素晴らしいのだ。
ひまわりは、朝顔が自分と同じように黄色く咲かないからといって、
朝顔を批判したり、うらやましがったりはしないだろう。
服や持ち物は人と一緒だと嫌だけど、
思うことは皆、自分と同じであってほしい。
人間て、不思議な動物だなぁ。と思う。
でも、それも、
「皆、一体だと感じていたい」ことの現れなのかもしれない。
何か違う意見にぶつかったら、
「色々な意見があるのだな。」と、
「個人がこんなに自分の意見を発言できるのだな。」と、
ほんのこの数十年で実現された、歴史的にすごいことを、賞賛してればいい。
たくさんの情報のなかで、それでも、それぞれ何かを選択する。
意思をもって選びとる。
そして、多様な世界が存在する。
それで、きっと素晴らしいのだ。
白でも黒でもない世界のなかで、
人間はうまくバランスをとりながら生きていける、生き物だと思う。
「なんとなく、いまはこう。」みたいな調整を、機械はなかなかできない。
白と黒のグラデーションを美しいと感じられる能力こそ、
いまこのとき、大切なような
気がしている。
なにか心に窮屈さを感じたら、
空に浮かぶ雲の陰影でも眺めて、そういうことを思い出そうと思う。
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